Trivial Journal
社長ブログ
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2021.2.19
深読みをしない
感性的な悩みをしない 稲森和夫といえば京セラの創業者であり、第二電電を立ち上げ、日本航空を立て直した知らぬ者のない名経営者である。京セラフィロソフィとも言われるその経営哲学もさることながら、稲森の人間性を慕い私淑するビジネスマンは数多い。 稲盛経営では原理原則を「経営十二ヶ条」、行動指針を「六つの精進」にまとめている。その「六つの精進」の最後に掲げられているのが「感性的な悩みをしない」という条文である。くだけた意訳をすれば、過ぎてしまった失敗をくよくよ悩んでみたところでしようがないじゃないか、反省すべきところは反省して次にどうしたらいいか考えて行動した方が生産的だろってことで、実にごもっともである。反論のしようがない。さすが稲森哲学。いや、マジで。 ついつい思い悩んでしまうのは、過ぎてしまったことだけに限らない。あとから都合の悪い真実ってやつが明らかになることもある。降ってわいたような問題を、お客さんにどう説明しようか悩むことも多い。自分に責任があるならまだしも、機械の初期不良などは我々が努力したところで防げはしない。心情的には申し訳ないと思うものの、メーカーの問題なのでお詫びする以外対処しようがない。コロナ禍での例でいえば、LTE回線のデータサイズ上限の変更がそんな状況だった。 みんなコロナが悪いんや 広い十勝平野ではいまだ光回線が届いていない地域も多く、そういうところでは低速なADSL回線でなんとかネットにつなげているのが現実である。収容局から遠いので信号が減衰しまくりだが、ISDNよりはまだマシといった程度で、スマホの方がずっと高速だ。大手キャリアのLTEデータ通信はながらく7GB上限だったため、とても業務用としては使えずにいたところ、ぽつぽつと100GBまで使えるSIMを提供するMVNO(格安SIM業者)が現れてきた。ほどなく上限が500GBになり、さらにほぼ無制限を謳うサービスが出てきたあたりで、そのサービスをお客様に薦めるようになった。実際にうちのお客様でも上限なしのプランを数件ご利用いただいていたのだが、そこへ新型コロナが現れ状況は一変した。 新型コロナウイルスの流行によりリモートワークが当たり前に行われるようになり、ビデオ会議の頻度も格段に増えた。外出も控えるようになったからインターネットを利用する時間も増加し、それに比例して通信量も増えた。そしてその日はやってきた。上流キャリアが上限なしのデータ通信サービスの提供を停止したのだ。 コロナ禍でトラフィック(データ通信量)が増えたからというのが表向きの理由ではあったが、一説によれば大容量通信の仕組みを利用して「限界突破」だの「どんなときも」だのといって無制限を謳ったサービスが社会問題になったことや、5Gへの設備投資のため4G/LTEへの追加投資はできないことなどもサービス停止の要因だとも言われている。いずれにしろ、我々は大容量通信を紹介したお客様に対し、サービスが停止になりますという連絡とお詫びをせざるをえなくなった。我々のせいではない。かといってMVNO業者のせいでもない。キャリアのせいでもない。誰のせいでもない。しいて言えばコロナのせいだ。 「きっと怒られるだろうなあ」 サービス停止は誰のせいでもないかもしれないが、誰も困らないというわけではない。当社としてはMVNO業者からマージンを貰っているわけではないのでまったく困らない。取次しかしてないので、サービス停止で直接的な損失はないからだ。だが、エンドユーザのお客様が一番困る。すでに大容量通信を前提に敷地内Wi-Fiシステムを構築しているからで、特に酪農業でのインフラは牛の命や健康に関わるので大問題となる。「上限が100GBなんてことになったらきっと怒るだろうなあ。気が重いなあ...」そんな風に考えて、連絡を入れるのがすごく苦痛だった。なにかそれに代わるサービスがないか調べたりもしたが、問題の解決を遅らせただけで時間の無駄でしかなかった。 だが、怒られようが怒られまいが、結論は決まっている。サービスは停まるのだ。くよくよ考えていたってしょうがない。自分たちがなすべきことは、お客様に正直に事情をお伝えすることと不足分のデータ容量を補う方法を提案することだけだ。悩んでいても対応が遅れ、余計にお客様に迷惑をかけてしまうことになる。感性的な悩みをしてはいけない、そう思ってお客様に連絡を入れた。結果的にお客様としても理不尽は感じたことだろうが、非常時・緊急時ということもあり、うちの会社が責められることはなかった。とはいうものの、困った事態は解決していないので万々歳にはほど遠い状況が続いている。 不安の種はいつだってある どんなに綿密に計画を練ったところで、トラブルの可能性はなくならない。トラブルの可能性がゼロではないなら、不安の種は必ずある。うまくいくだろうか、失敗はしないだろうか。突発的なエラーがおきたりはしないだろうか。こんなことを言ったら気分を害したりしないだろうか。あの時のあの人がああ言ったのは、実は気分を害していたんじゃないだろうか...などなど、考えてもしょうがないことを深読みして時間を浪費してしまいがちだ。 だが、なすべきことは意外とシンプルだ。実は選択肢はそんなに多くない。結局、深読みしたところで結論はかわらないのだ。ただ不安の芽を早めに摘んでおくことはできる。その方法が「先読み」である。深読みはするな。先読みをしろ。簡単なことだ。空を見て、雨が降りそうだったら、傘を用意すればいいって話は先週分のブログを参照のこと。
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2021.2.14
空雨傘と自分ごと
フレームワークなんかこれだけでいい ITの世界でフレームワークといえば(この後の横文字は飛ばしていい)SymfonyやRails、Strutsなどのソフトウェア・フレームワークを指すことが多いが、一般的にフレームワークといえばビジネス・フレームワークのことだろう。 ビジネス・フレームワークとはビジネスに必要とされる論理思考や発想法などを体系的にまとめたものの総称で、有名どころで言えばSWOT分析とかPPM分析などがある。もちろん、これだけじゃなくてビジネス・フレームワークを集めればそれだけで一冊の本になるくらい多種多様なフレームワークがあるのだが、数あるフレームワークの中でもっともシンプルかつ重要だと思っているのが「空雨傘」である。 空雨傘とは 「空雨傘」とは、情報を事実→解釈→行動に分解して思考を深めるためのフレームワークだ。 空(事実)...黒い雲が急に広がってきた 雨(解釈)...雨が降ってきそうだ 傘(行動)...傘を持って出かけよう 仕事の現場では「こうなることはわかっていたはずなのに」というケースが往々にしてある。たとえばパソコンの故障を考えてみよう。 どうもコンピュータの中から異音がする(事実) 機械が壊れかかっているようだ(解釈) 使えなくなる前に修理に出そう(行動) 普通はこうなるはずなのだが、現実的にはそうじゃないことも少なくない。その場合の思考回路は以下のようになる。 どうもコンピュータの中から異音がする(事実) どうもコンピュータの中から異音がする(思考停止) コンピュータが壊れたようだ(自業自得) 障害対応の現場に着くと社員さんが自信なさげに「何にもしてないんですけど...」というのを何度聞いたことだろうか。機械は必ず壊れるものなので社員さんに罪はないが、動かなくなって途方に暮れた原因の大半は「何かをしたこと」ではなく「何もしなかった」ことにある。なぜ異音がしてるのに何もしないんだ!? 大事にはいたらないケースが多いから笑い話にもなるが、自分の身を振り返れば「ああ、あの時に気がつくべきだった。考えておくべきだった」という経験がない人はいないんじゃないだろうか。きっと部下(または同僚や上司)に対して「問題は事前に防げたろう!もうちょっと考えろよ!!」と責める気持ちになったことだってあったはずだ。 しかし、漫然と日常を過ごしていると「解釈」がおろそかになるんだよね。いや、「事実」に気づきもしなくなってしまうのだよ。それに、自分が理解できないことには「解釈」が及ばないことも多い。前述したパソコンの故障なんかはその典型たるものだ。わからないことはおっかないからね。だけど、「解釈」が及ばないからといって放置しちゃうと「行動」が遅れて、すべてが後手後手に回ってしまう。最終的にひとつの遅れがまわりの仕事全部に影響しちゃって大きな問題になる...なんてよくある話だ。 すべては自分ごと 常に先手を打って、スムーズに仕事を進めたいと思えば、まずは「事実」に気づくこと。じゃあ、どうやったら気づけるんだろうか? ひとつの提案として、会社で起こっていることは全部自分ごとだと思ってみよう。気がつく、気が利く、気が回る人はそうでない人はどこが違うのだろう。気が利く人はいろんなものを見ている。いろんな話を聞いている。で、細かいことに気がついている。気がつくから、それに対処ができる。気が利かない人はいろんなものに関心がない。すぐ目の前にあっても見えてさえいない。結局、自分に関係のないものは視界に入ってこないのだ。関心のないことに関しては話も聞こえていない。集中力が高いのかと思っていたらそうでもなく、ただ単に関係ないと思っているだけだったりする。だけどね、会社で起こっていることに他人ごとなんてないんだ。 いつの間にか洗ってあるコーヒーカップ、洗ってくれてるのは誰?給湯室の三角コーナー。水きりネットはどこにしまってあるの?ごみ箱のゴミくらいは自分で捨ててるかもしれないが、それをゴミを処分しているのは誰?台布巾の殺菌と漂白をしてくれてるのは誰?在庫が切れたトナーの発注は誰がどこにしているの?仕事はどこからやってくるの?請求書はだれがどうやって出してるの? あなたが気持ちよく仕事ができるように、細かいことを受け持ってくれている人がいる。そういう人たちの仕事に思いを馳せてありがとうという気持ちになれないひとに気づきなんか訪れない。気づかない人は解釈もできないし、先手を打てない。目の前も見えていないのに、仕事なんかうまくいきっこないよね。会社でも自分の家でも、いろんなことを自分ごとだと思って積極的に気づいていくことで、感謝も生まれるし、仕事もうまくいくんじゃないかな。 うちの会社の行動指針にある「深読みはするな。先読みをしろ。」っていうのは、そういうことだ。精神論はあんまり好きじゃないけど、ちゃんとした仕事をするためには人間的な成長が必要だし、人間的成長は普段の生活を考えることから始まるんだと思うよ。 (「深読みをするな」については来週書く。というか、公開する順番を間違えたぜ)
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2021.2. 5
MS-DOSしかなかった頃とあきらめないこと
ソフトウェアの会社がDM手書きっておかしいだろ awk(オーク)という言語を知ったの平成4年(1992)くらいのことだったと思う。その頃は異動で札幌におり、札幌では知名度の低い会社だったので、セミナーを開催して見込み客を集めていた。集客に当たってはメーカーから見込み客リストが支給してもらい、それを元にダイレクトメールを出していたのだが、もちろん宛名は手書きである。メーカーにはデータがあるのに、なぜ手書きしなくちゃいかんのか。馬鹿々々しいのでテキストを支給してもらってパソコン用のデータベースに取り込むことにした。ところがデータの整理がされていないので不要な項目がやたらにあって、当時の非力なパソコンでは重たすぎる。無駄を省くためデータを成形する必要に迫られて、その方法を調べた際に知ったのがawkである。 今でこそ Perl(パール)や Ruby, Python, PHP(ルビー、パイソン、ピーエイチピー)と簡単にテキスト処理ができる言語は珍しくないが、平成4年くらいだとパソコンの開発言語は C が主流で、分野によって COBOL や FORTRAN が一部で使われているくらいの頃だ。経験者ならわかるだろうが、テキスト整形は C ではちょっと面倒にすぎた。というより、C言語なんか高くて買ってもらえなかった。大きな声では言えないが、データベースだってお客さんからカジュアルコピーしたMS-DOS版のカード型データベースなのだ(ちなみにリード・レックスが出していたF1 DATA-BOX)。 11万分の1って想像つくか? 当時様々なコンピュータ関連書籍・雑誌を読み漁っていたので、UNIXの世界にはテキスト処理言語と呼ばれる言語があるらしいということ、それは awk といいい、MS-DOSでは jgawk というプログラムが使えるらしいということなどは知識として知っていた。ただし、読み方がまったくわからず jgawk はジェイジーエーダブルケーなのかジェイゴークなのか不明だった(今考えると ジェイジーオークが正解)。今のようにインターネットが普通にある時代ではない。会社にはNIFTYアカウントはあったけれど、電話代がかさむので上司がいい顔をせず、NIFTYでダウンロードするのは気が引けた。しょうがないので個人で jgawkがフロッピーで付いてくる参考書籍を注文して、ようやくプログラムを入手した。言っておくがAmazonなんかないし、それどころか携帯電話だってない。なんとなく気が咎めながら会社の電話をつかって紀伊国屋に注文し、入荷までに一週間くらいかかったと思う。 ところが取り寄せた参考書があまりいい出来ではない。はっきり言って分かりづらい。会社には東京でUNIXの仕事をしていた同僚もいたので教えを乞うたが、awkなど使ったことがないという。プログラマはわざわざ新しい言語を覚える必要などなく、自分が使える言語で処理すればいいので、案外こういうコマンドには疎かったりするのだ。ようやくのことでプログラムを動かしてみると、今度は元データが大きすぎて使えないということが判明した。信じられないかもしれないが、MS-DOSのパソコンは基本的に640KBのメモリで動いている。富士通のFM Rシリーズはメモリ空間がいくらか大きくなっているが、それでも768KBである。これが上限なのだ。今の標準的なパソコンが8GBのメモリで動いているとしたら、11万分の1のリソースしかない。1/110000、マラソンの49.195キロメートルの11万分の1は45センチメートル、体重100キログラムの11万分の1は0.9グラムである。ともかく信じられないくらい少ないメモリで動いていたのだ。限界があることはわかっていたが、いざ壁にぶち当たるとやはりがっかりした。 世間にはMS-DOSしかなかった 残念なことに世間にはMS-DOSしかなかった。メモリ空間が広がる Windows95が登場するのはさらに3年後の話である(Windows3.1は出ていたが、あんなものはWindowsの皮をかぶったMS-DOSでしかない)。Macintosh もあったが、ビジネスに使えるコンピュータではなかった。そういえばIBMのOS/2ってのもあったが、既にMicrosoftに見限られたオワコンだった。要するにMS-DOSしかなかったのだ。だが、広い世界にはUNIXというOSがある。当時、声高に叫ばれていたダウンサイジング(当時流行っていた、というか某社が流行らせたかったバズワード)によって UNIXの世界で使われてきたデータベースシステムやミドルウェアがどんどんWindowsの世界にもおりてきていた。 UNIXの世界だったら640KBの壁を越えられるんだ!いつかはUNIXの世界に行くんだ。UNIXだったら自由なんだ。憧れのUNIXにさわれる日を夢見ながら、結局、顧客情報はRED2というテキストエディタのマクロ機能で加工した。しょぼいぜ、俺!でもな、なければないで、目的達成の手段はあるんだ。 最初からなんでもあると思うなよ ここ最近で会社にジョインしたメンバー、特に何年かよその会社で経験を積んだメンバーほど、うちの会社に足りないものが気になるだろう。ルールがない、福利厚生がない、設備がない、あれがない、これがない。ないものばかりに映るかもしれない。 しかし、今あるものは全部先輩社員が努力の上で勝ち取ってきたものばかりだ。他所の立派な会社に比べればないものも多いかもしれないが、あるのが当然と思ってもらっちゃ困る。ないものがあれば、自分で勝ち取ること。うちの会社はそういう会社だ。 目的を成し遂げる方法はいくつもある。今は無理だって、そのうちなんとかなる。頭を使えば別の方法だって見つかる。大事なことはあきらめないことだ。UNIXもあきらめていなかった。憧れのUNIXを動かすことに成功したのは1997年のことだが、それは稿を改めることにする。
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2021.1.30
自分が商品だからね
取り柄はなかったが根拠のない自信はあった まったくの未経験でコンピュータ業界に足をつっこんだため、すべてのことが一からの勉強だった。つまり社内の誰よりも仕事ができない状態なわけだ。おまけに学歴は高卒(大学中退だからある意味、高卒より条件は良くない)、資格なし、技術なしで誇れるものはなにひとつない。せっかくまともな職についたのだし、もう後がなかったので、コンピュータに関する勉強は真面目に取り組むことにした。コンピュータに対する知識は全然なかったが、幸いなことに興味はあった。勉強も嫌いじゃなかったので、まあ、なんとかなるだろうという根拠のない自信もあった。 どう勉強したかは別の機会に書くとして、結論としてなんとかなった。コンピュータは自分の性(しょう)に合っていた。知らないことをすぐ質問するくらいの社交性は持ち合わせていたし、パソコンのカタログを読んでわからないことをわからないと認識できるくらいの読解力もあった。自宅(妹のマンションだけど)でもたくさん本を買って勉強していたので、それなりの成長はあった。さらに自分でパソコンをセットアップするようになってからは飛躍的に理解が高まった。 コンピュータはものすごく高価だった 今でこそ10万円も出せば表計算ソフト付きのパソコンが買えるが、当時は今ほどコンピュータが安い時代ではない。富士通のパソコンFM R-50HDの本体価格が62万円だ。これにディスプレイ15万円、キーボード3万円、プリンター20万円を組み合わせていくと100万円近くなる(本体以外の価格はうろ覚え)。たとえ社員価格で買っても70万円くらいにはなるので、入社したての中途採用がおいそれと買えるようなシロモノではない。それどころか、会社にだって共用のワープロ専用機があるだけで、トウの立った新人が勉強できるようなパソコンなんかない。自分で商談を見つけ、お客さんに販売するコンピュータをセットアップすることで、ようやくパソコンに触る機会が得られるような時代だった。 そんな環境ではあったが、コンピュータの勉強に手応えが出てくるまでにそれほど時間はかからなかったと思う。OASYS(オアシス)というワープロやEPOCALCという表計算ソフトを使うくらいは数か月でできるようになっていたはずだ。営業職に向いているかどうかはわからないが、自分でもコンピュータには向いているなと思った。その時に考えたことはこうだ。 ラッキーなことにどうやら自分はコンピュータに向いているらしい。しかし、大学の同級生はもう社会に出てもう5年もたっている。高卒で働いてる人は10年近いキャリアがある。今や現場で一人前に働いている人がほとんどだろう。かたや自分はようやく正職について、一から出直したばかりだ。少しばかりコンピュータに向いていたところで、ここを辞めてしまえば元の黙阿弥。もうやり直しの時間はない。だったらコンピュータを一生の仕事にしてやろう。 営業に向いてると思ったことは一度もない 同時に営業職に対する適性についても考えた。今でも自分が営業職に適性があるとは思っていないが、その時はもっと自分の営業スタイルに悩んでいた。クセのある性格なので敵味方がはっきり分かれるし、できれば知らない人とは会わずに済ませたいほうで、実はそんなに社交的なわけでもない。当時の言葉ならネクラ、今でいえば陰キャの典型である。知らない企業に飛び込んでグイグイ行くような営業力もない、場を和ませるような柔和な性格でもない、容姿は十人いれば九人に「第一印象は悪かった」と言われるような風体だ(あと金がなくて着た切り雀だったしな)。もう営業としての資質などほとんどない。しょうがないので、こう考えた。 「俺はコンピュータのことで知らないことがないようになろう。何を訊かれても答えられるようになろう」 それが学歴もない、資格もない、技術もない自分の商品価値だと思った。何もない割に、というか、何もないからこそ考えた結論だった。 よそでも生きていける自分を育てろ 一般論として同意してもらえると思うのだが、自分の商品価値を高く持っていければ、世間を生きていくのに困ることはない。特にワン・エックスの生業(なりわい)であるデザインやソフトウェア開発はその最たる仕事で、デザイナーもエンジニアも学歴や資格が必須条件ではない。実力さえあれば、よその会社でいくらでも通用する。継続的な努力が必要だし、時間もかかる。センス(およびセンスを磨く努力)も必要なので、いうほど簡単なことではないかもしれないが、自分次第という職種なのは間違いない。 とはいうものの、俺自身はデザイナーでもエンジニアでもない。にもかかわらずとりあえず生きていくだけの仕事には恵まれてきた。つまり、手に職をつけるばかりが商品価値を高める手段ではないわけだ。 持たざる者だった俺は持たざるが故に真剣に自分の商品価値を考える機会に恵まれた。だが、自分という商品の価値は誰にとっても等しく大切な問題のはずだ。うちのスタッフにはワン・エックスを離れても生きて行けるだけの商品力を持ってもらいたいし、そのための協力をしていきたい。逆説的にそれがワン・エックスのためになると思う。
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2021.1.22
コンピュータ業界に入るまで
だらしないだけの若者 大学を辞めたのは24歳の時だった。立派な理由はない。ただ単に生活がだらしなくて卒業の見込みがなく、それ以上いてもしょうがなかっただけだ。 辞めてどうするという当てもなかった。大学を辞め、学歴もないし、資格もないし、手に職もないし、生活の足しになるような趣味もない。ただ学生時代にバイトでホテルのベルボーイやスナックのボーイみたいなことをしていたので、漠然と飲食業の道を考え、知人の紹介で旭川にあった外食関係の会社に入った。結局そこも2年半くらいで辞め、半年くらいパブでウェイターをしてから帯広に戻った。 仕事探し そもそも外食の会社を辞めた理由は生活苦のせいだったので蓄えがまったくなく、情ないことに妹のアパートに転がり込んで職探しを始めた。まだハローワークと呼ばれる前の職業安定所に行き、いちおう登録はしたものの面談してくれた職安の人も温度が低くて頼りにならない印象だった。まあ、先方としても何も取り柄のない若者に対してリアクションの取りようがなかったんだろう。 職安が頼りないので(自業自得だけど)、新聞の求人広告をみて仕事を探した。当時多かったのは宅配便のドライバーや引越し業者・建設関係の体を使う仕事や電気部品などの製造、飲食業のホールスタッフなどで、あとは「幹部候補生募集」などという求人もあった。さすがに幹部候補生募集には応募しなかったが、飲食業は懲りており、体力にも自信がなかったので、残るは営業職しかなかった。 まず最初に受けたのは広告会社で、あっけなく落ちた。次にパチンコ店設備の会社を受けて、そこは何度も誘われたのだが、仕事の都合上で土日や深夜の仕事が多いと聞いて辞退した。三つめに受けたのが地元のコンピュータディーラーだった。 たしか午前10時くらいだったと思う。一張羅のスーツを着て面接に行き、会議室へと連れていかれ適性試験を受けさせられた。そのあと、実質的な経営者である常務と面談し、「試験(結果)だと営業もプログラマもどっちでもできそうだけど、どっちがいい?」と訊かれ、その頃はコンピュータのコの字も知らなかったので「営業で」と答えた。常務は「まあ、そうだな」と独り言のようにつぶやき、結果は連絡すると言って帰された。うち(というか妹の部屋だが)に帰って文庫本か何かを読んでいると、夕方になって常務から直接「明日からきなさい」と電話があり、それで就職が決まった。 就職は決まったが それまで液晶パネルが2行分しかないワープロをちょっと触ったくらいが関の山で、コンピュータなど触ったこともなかった。会社の看板には「富士通ディーラー」と書いてあったので、富士通系のコンピュータの会社だということは知っていたが、ディーラーが何をするところかはまったく理解していなかった。営業だからコンピュータを売る仕事なんだろうなくらいの認識なので、当たり前だが自分が勤まる自信はまったくない。当時27歳、実質的な社会人デビューではあったけれど、将来の見通しが立ったわけではなかった。 自分のコンピュータ業界のキャリアはそんなところから始まっているので、若い頃に多少だらしなかろうがヤンチャだろうがあまり気にしない。経験の有無も重要だと思わない。大事なのはそこからの努力だと思っている。
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2021.1.15
Trivial Journal のこと
Trivial Journal(トリビアル・ジャーナル)というのは昔書いていたウェブ日記のタイトルで、「些末な記録」とか「つまらない日記」みたいな意味だ。子供の時からくだらない豆知識みないなことだけはよく知っていたので、そういう自分の気質を自嘲的に表したタイトルでもある。 日記を書いていたのは2001年くらいからで、もともとはLinuxの勉強をするために自宅サーバーを立てて、Linuxを通じて知り合った友人・知人にウェブスペースを無償提供していたことから始まった。当時はまだブログという言葉はなくてウェブ日記というのが一般的な呼び方だったが、Linux界隈では「はいぱー日記システム(HNS)」というPerlで書かれた日記システムがよく使われていて、初代Trivial JournalもHNSで動いていた。当時、ウェブ日記は今でいうSNSの役割を果たしていて、自分用の記録でもあったが、友人同士がお互いの日記を巡回しあって近況を語り情報交換をするためのツールでもあった。 30歳を過ぎ右も左もわからずに憧れだけでLinuxを学び始めたが、帯広という北海道の地方都市でLinuxの勉強をしようと思っても教えてくれる人はどこにもいない。Linuxの地域コミュニティが活発な頃だったので北海道Linuxユーザーズクラブというコミュニティがあり、そこにジョインしたもののメンバーのほとんどは札幌在住。彼らと日常的にコンタクトを取る手段はメーリングリストが主体となっていたが(IRCについては別に書く)、メーリングリストでは他のメンバーがどんな生活をしているのかまではわからない。その点、ウェブ日記は向こうの仕事や生活の断片がちらちらと見えて面白かった。また、こちらから日記を巡回し閲覧してまわるだけではなく、Linuxを学んでいく上での疑問点やエディターの使いこなしのノウハウなど知りたいことを書いておくと上級ユーザーから親切なコメントをつけてもらえるのがやたらに嬉しかった記憶がある。 年頭の目標として社内向けブログを書き始めることにしたのだが、スタッフからウェブサイトの更新が滞っているからどうせならと言われて外向けにちょっと書き直したものを公開することになった。ついてはLinuxを学び始めた頃の気持ちに戻りたくて古い日記のタイトルを掘り起こした次第である。ご笑覧いただければ幸いだ。